乱と変と役 – 承久の変か承久の乱か

編集人が日本、それどころか世界で最も優れた文学作品と仰ぐ『新古今和歌集』、この編纂を命じたのが後鳥羽上皇である。

この後鳥羽が打倒鎌倉幕府と強兵して敗れ去った「承久の変(じょうきゅうのへん)」、と編集人は記憶していたのだが、今は「承久の乱」と称すらしい。

では、「乱」と「変」の決定的な違いは何か?
はたまた、「役」もある。

これらの使い分けを研究してみよう。

乱とは

基本的には政権交代とか、為政者が関わるものを指すのだろう。
あるいは武力をともなう規模が大きい戦闘でもあるようだ。

応仁の乱も、室町幕府内の権力闘争であったか。
また、上皇後鳥羽が倒幕=武家からの政権奪取を意図したゆえに、変から乱へ書き換えたのか?

いずれにせよ、日本の大学の教授とかアカデミックな人々の考えは図りがたい。「皇国史観」が根底にあるとしか言いようがない。
あるいは、中国の史書で乱と変とを使い分けている可能性もある。

結論としては、編集人はシロートであり、またインターネット上でも確実なソースが見当たらず、漠然としたものにならざるを得ないのである。

変とは

乱と違って、政権や為政者が直接関わらないもの、あるいは中小規模の戦闘の場合のようである。

本能寺の変も、織田信長は完全には日本の支配者になっていなかったから、乱ではなく変なのだろうか。それとも大規模な戦闘ではなかったからか。

役とは

この「役」もおもしろい。

基本的には、対外国の戦争を指すようである。

モンゴル帝国が侵略してきた蒙古襲来、これは文永の役と弘安の役と呼ばれている。

ところで、鎌倉幕府開祖の源頼朝の祖先である源義家、この八幡太郎と父頼義が関わった東北の戦闘は、前九年の役・後三年の役と呼ばれている。
おかしいことに、義家に戦功があったにもかかわらず、朝廷は「私戦」とみなし褒賞を与えなかった。
そういった当時の日本の辺境の源氏の私的な戦争が「役」なのである。

これは東北を蝦夷と見下し、かつ坂上田村麻呂が征夷大将軍として遠征したり、東北地方は外国、東北人は異人とみなされていたのだろうか?

「承久の変」「承久の乱」

では、いつものように検索件数を比べてみる。

実際は「承久の変」と検索しても「承久の乱」もいっしょに表示されるケースが多いようだ。

ああこれは、もう完全に「承久の乱」が定着していることが分かる。

白菊に人の心ぞしられける うつろひにけり霜もおきあへず

「菊」とは帝すなわち自分自身、そしておきあへずは「隠岐」、つまり承久の乱の敗戦後に流された地に通じる。
もちろん、上記の歌ははるか前に作成されたものだが…